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ビーチバレー

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野沢にレーザー攻撃!鹿島大荒れ1位突破

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アジア・チャンピオンズリーグ1次リーグ最終戦が19日、各地で行われ、G組の鹿島はアウェーで上海申花(中国)と1―1で引き分けて1位突破を決めたが、MF野沢拓也(27)が上海申花サポーターにレーザー光線を浴びる悪質な妨害行為を受けた。また、後半22分に興梠慎三(22)が相手DFに乗り上げられて右胸を負傷し、救急車で病院に搬送されるアクシデントも発生した。

 想定外の荒れた試合となった。後半22分、荒っぽいプレーが目立っていた上海申花のDFに乗り上げられた興梠が、右胸を押さえてピッチにうずくまる。担架に乗せられてピッチ外に運ばれると、そのまま大迫と交代した。試合後、チームドクターとともに救急車で近くの病院に直行。「(肋骨に)ひびが入っているのか、折れている疑いがある」と鈴木満取締役強化部長は説明した。

 上海申花サポーターからも妨害を受けた。後半、CKを蹴るためにコーナースポットに近寄った野沢は右目の下あたりに緑色のレーザー光線を浴びた。野沢は「レーザー?当たってたよ。何かピカピカ光っていた。気にはならなかったけど、危ないよね」と険しい表情で話した。試合後、鹿島関係者はレーザーの照射された様子が分かる証拠写真を提出してマッチコミッショナーを通じてアジアサッカー連盟(AFC)に抗議。ピッチにペットボトルも投げ入れられ、上海申花の関係者からは謝罪を受けた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090520-00000020-spn-socc

チーム母体は1947年に創設された住友金属工業蹴球団。1991年のJリーグ加盟時に鹿島アントラーズに改称した。

ホームタウンは茨城県鹿嶋市(合併前は鹿島郡鹿島町と大野村)・潮来市・神栖市に2006年からは鉾田市、行方市も加わった。1995年に鹿嶋市が誕生して以後もチーム名は地域名の鹿島のまま。なお当時ホームタウンは原則として1チーム1市区町村だったが、鹿島に限り特例で周辺市町村との広域ホームタウンが認められた。

チーム名の「アントラー(antler)」は英語で鹿の枝角を意味し、鹿島神宮の神鹿にちなみ、枝角は茨城県の茨をイメージしている。その鋭い枝角で勇猛果敢に立ち向かい勝利を目指すという意味も込められている。

チームは、一年ごとのスローガンとは別に「FOOTBALL DREAM」を常に掲げ、地域と共に頂点を目指す。

チームマスコットは、クラブ創設時より「しかお」。シカをモチーフにしたキャラクターである。さらに1997年3月2日にしかおと結婚したと言う設定で、「しかこ」が登場。1999年8月1日にしかおとしかこの間に誕生したと言う設定で「アントン」が登場した。

ホームスタジアムは茨城県立カシマサッカースタジアムで、練習場は鹿島アントラーズクラブハウスグラウンドを使用している。

カシマスタジアムの指定管理者にもなり、カシマウェルネスプラザによる健康事業や茨城大学との提携などによるスタジアムの利活用、2007年にはファンクラブ事務局を東京から地元のカシマスタジアムに移転するなどさまざまな取り組みを行っている。

また、サッカー以外にもミニバスケットボール、テニスのスクール、剣道教室を開催している。テニス競技とは結びつきが強く、デビスカップ開催時にはアントラーズのボランティアスタッフが試合運営をアシスタントした。

また、監督により戦術を頻繁に変えるチームが多いJリーグにおいて、開幕からほとんどの試合をDFを4人配置する4バックで戦うなどチーム戦術に一貫性のある数少ないチームである。

ジーコが所属していたこともあり、ブラジルのサッカー界とも強いパイプを持つ。Jリーグが開幕した1993年以降、所属した外国籍選手は2009年に「アジア人枠」を利用して獲得したパク・チュホ(韓国)以外は全員ブラジル人選手である。ジョルジーニョやレオナルド、ベベットなど、サッカー王国ブラジルでも一線級に値する選手たちが過去に鹿島でプレーした。

今シーズン(2009年)のスローガンは、『FOOTBALL DREAM '09 PROGRESSO(プログレッソ)~飛躍~』

 

クラブの歴史 [編集]

 

住友金属時代 [編集]

太平洋戦争後の間もない1947年、空襲の爪跡を残す大阪市に住友金属蹴球同好会を創部した。1956年には住友金属蹴球団に改称。1973年に日本サッカーリーグ2部に昇格。1975年に茨城県の小さな町だった鹿島町(現・鹿嶋市)に移転した。さらに1部昇格を狙うには、いろいろな苦労があった。当時、他の実業団チームは契約制を導入し始めていた。外国人選手をはじめ国内でも実力の高い選手と契約を交わしてプロとしての意識づけを行い、レベルを高め、戦力の強化を達成してきた。

しかし、住友金属は徹底したアマチュアイズムを貫いており、また社内にはほかに多くのスポーツ団を抱えていたので、蹴球団だけを特例としてノンアマチュア化(プロ化)することはできなかった。

1985年、1部への昇格を果たす。しかし結果は12チーム中11位と再び、2部リーグに降格せざるをえなかった。 1986年には、1部への返り咲きを果たした。しかし1部リーグでは12チーム中10位。翌年には12チーム中11位とまたしても2部に降格。 1989年。プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立が具体化、当時の住友に参加の意思は無かったが半年後の1990年、住友金属本社の「2000年ビジョン」の指針が発端となって「住金の中で最も転勤したくない事業所」であった鹿島を盛り上げる起爆剤になるようプロリーグ参加を表明。鹿島町長を含めた7名がプロリーグ参加を協会に要望。しかし「2部リーグのチームの力じゃ、プロリーグでやっていけないだろう」、「人口が少なくサッカーが盛んとはいえない鹿島で観客を集めることは困難」と誰もがそう思っており、さらに当時のJリーグ理事長・川淵三郎からは「とにかく住金が加入できる確率は限りなくゼロに近く、99.9999%ダメだ」と言われたが、住友金属蹴球団代表者(後の2代目Jリーグチェアマン鈴木昌)は、「まだ0.0001%の可能性はあるんですね」と言い返し、川淵はJ加入条件を徐々に上げるが、住友はそれらのハードルを乗り越え、最期にダメ押しのつもりでやんわりと「スタジアムが屋根付きなら考えない事もありません」と諦めさせる為に言ったつもりだったが屋根架設のメドを取り付け、断る理由が全て無くなった川淵は絶句する。

その後、1人のブラジル人がやってきた。それがブラジルが生んだスーパースターで、元ブラジル代表主将ジーコ(元・日本代表監督)である。ジーコが加入してきたのは1991年(川淵三郎によると、「当初、紹介した古河電工(現:ジェフユナイテッド千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と話している)。当時チームは2部リーグに甘んじていたが、ジーコのスーパープレイは他チームの選手を翻弄した。そして、日本初の本格的サッカー専用スタジアムとして建設されたカシマサッカースタジアムをホームスタジアムとして、念願だったJリーグ加盟をJリーグ発足初年度に果たし、チーム名も「鹿島アントラーズ」と改称、プロクラブとして新たなスタートを切った。

 

1993年 - 1999年 [編集]

初代監督には本田技研サッカー部の宮本征勝が就任。選手も長谷川祥之や本田泰人などJリーグ入りを断念した本田技研の選手を中心に補強。ジーコ、アルシンドなどブラジル人選手を中心にJリーグ開幕を迎えた。1993年5月16日に行われた開幕戦はカシマスタジアムに名古屋グランパスエイトを迎えたホームゲームで「ジーコとリネカーの対決」が注目されたが、ジーコのハットトリックとアルシンドの2ゴールで5-0で圧勝、白星スタートを切った。旧本田勢に加えて大卒新人の秋田豊がレギュラーを獲得し、勢いに乗ったチームは開幕シリーズである1993年1stステージを制覇。しかし、1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で2試合が行われたJリーグチャンピオンシップでは2試合で1分1敗となり、初代年間王者はヴェルディ川崎に譲った。第2戦ではジーコが三浦知良のPKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となり、大きな話題となった。また、開幕戦の圧勝から1stステージ優勝に至る快進撃により、鹿島町は「サッカーの町」として全国的に認知され、周辺人口の少なさから低調な観客動員が危惧されていたカシマスタジアムは毎試合超満員となり、チケット入手が非常に困難なスタジアムとして知られるようになった。

1994年のサントリーステージ(1stステージ)終了後にジーコは現役を引退したが、その後もテクニカル・アドバイザーとして鹿島に深く関わり、実兄のエドゥーが宮本の後任監督として指揮を執った。また、ジーコの「後任」としてアメリカW杯にブラジル代表として出場したレオナルドやジョルジーニョ が加入し、彼らの活躍で鹿島は強豪としての地位を築いていった。これ以後も鹿島にはジーコの人脈を生かした優秀なブラジル人選手が加入し、チームを勝利へ導いた。これは、J1に在籍経験のあるJリーグクラブの中で、鹿島が唯一ブラジル国籍以外の外国籍選手を獲得した事がない歴史につながっている。1994年シーズンのリーグ戦でアルシンドが、鹿島でのシーズン最多の28得点(2008シーズン終了時点も継続中)を記録。

1シーズン制で行われた1996年にはジョアン・カルロス監督により初めての年間王者に輝き、得失点差の関係で最終節を待たずに事実上優勝が決まった同年11月6日のカシマスタジアム(第29節、鹿島4-2名古屋)は歓喜に包まれた。しかしチャンピオンズファイナルでは決勝戦で名古屋グランパスに敗れ96年シーズンの完全優勝を逃した。V川崎からビスマルク、ベルマーレ平塚から名良橋晃が移籍して戦力が更に充実した1997年には、ヤマザキナビスコカップと天皇杯を初制覇して「カップ・ダブル」を達成。サントリーステージ(1stステージ)優勝により出場したチャンピオンシップではジュビロ磐田に2連敗し、特に2戦目のカシマスタジアムでの敗北後には怒った観客がピッチ上での表彰式に乱入するという失態も演じたが、Jリーグは鹿島と磐田の新たな2強時代に入った事を日本のサッカーファンに印象づけた。

1998年シーズン中断中にジョアン・カルロスとジョルジーニョとの意見が合わず(原因は、2月のアジア・クラブ選手権で負傷していたジョルジーニョの検査日がジョアン・カルロスに伝わっておらず、ジョルジーニョが練習で手を抜いていると思い込んだジョアン・カルロスの勘違いが判明。)、ジョアン・カルロスをクラブ初のシーズン途中に監督解任、中断明けの1stステージの残りを関塚隆が監督代行として指揮をとる。9月23日に長谷川が清水戦で、クラブ初の在籍通算100得点目(通算130得点/2008年3月12日現在も継続中)を達成。2ndステージ開始前にゼ・マリオ監督を招いて優勝し、チャンピオンシップでは磐田を下して、2度目のリーグ年間優勝を果たした。この年のリーグ戦で柳沢敦が、鹿島での歴代日本人選手のシーズン最多得点(22得点/2007シーズン現在も継続中)を記録。また、同年のフランスW杯では日本代表に鹿島から秋田・名良橋・相馬直樹の3人が選ばれ、いずれも日本が戦った全3試合に出場した。この年の2ndステージ第5節の福岡戦から翌1999年第3節広島戦まで16連勝(延長戦およびPK戦による勝利を含む、2008年現在リーグ戦連勝記録として継続中)という記録を樹立した。

1999年にはカシマスタジアムの改修工事が始まり、1stステージの主催試合は東京都新宿区の国立霞ヶ丘陸上競技場で行うようになった。また、一部の試合は石川県西部緑地公園陸上競技場(石川県金沢市)や富山県総合運動公園陸上競技場(富山県富山市)でも行われ、富山の試合では同県出身の柳沢がゴールを決めた。1998-99年シーズンのアジアカップウィナーズ選手権は3位を獲得も、この年の優勝はシーズン冒頭のゼロックス・スーパーカップのみで、不振に陥ったクラブはゼ・マリオ監督を解任し、2ndステージ途中からはジーコが総監督として指揮を執った。9月23日のジェフユナイテッド市原戦での長谷川の得点により、Jリーグクラブ最速のリーグ戦通算500得点を達成した。

 

2000年 - 2002年 [編集]

2000年にはジーコの盟友ともいうべきトニーニョ・セレーゾが監督に就任(2005年までの6年間監督を務めた)。ナビスコ杯、Jリーグ年間王者、天皇杯で優勝しJリーグ発足以来初の日本サッカー三冠(国内では、日本サッカーリーグ時代の日産自動車に次いで2チーム目)を獲得した。

2001年には、2000年シーズンの三冠達成を称えて茨城県から県民栄誉賞を受賞した。しかし、このシーズンの1stステージは前年の天皇杯で負傷した相馬直樹など主力選手の怪我が相次ぎ、まさかの11位と低迷する。続く2ndステージでは相馬の穴を埋めるべく加入したアウグストの活躍で優勝を果たし、チャンピオンシップで磐田を破り、2年連続リーグ年間優勝となった。この年に象徴されるように、年間王者には最多の6度輝いている鹿島だが、その中で年間総合の勝ち点で1位になったのは1ステージ制の1996年と2007年、2008年、それに1997年(磐田と同点、得失点差で優位)の4度(磐田とV川崎が3度)、逆に2ステージ制時代に年間総合勝ち点で1位だったのにタイトルを逃した年はない。リーグ戦で安定した成績を残してきたライバル磐田に対して、鹿島はここ一番での勝負強さ、特にシーズン後半の好成績が光るチームである。このことがJリーグクラブとして最多の12個(2009年1月1日当時)のタイトル獲得をもたらした。

2002年には、リーグでは絶好調の磐田を止められずに3連覇を逃したが、ヤマザキナビスコカップは決勝で初タイトルを狙った浦和レッドダイヤモンズを1-0で下し、優勝を果たした。また、2002 FIFAワールドカップの試合がカシマスタジアムでも行われ、鹿島も日本代表に秋田豊・鈴木隆行・柳沢敦・中田浩二・小笠原満男・曽ヶ端準の6人(クラブ別では最多)を送った。鈴木は初戦のベルギー戦でゴールを決め、鹿島所属として初のW杯得点者となった。大会終了後にはジーコが日本代表監督に就任し、テクニカルディレクターを辞任した。また、鈴木もベルギー1部リーグのKRCヘンク(ゲンク)へ移籍した。その一方、拡張されたカシマスタジアムでは空席が目立ち、改修前の定員すら下回る観客数の試合が多くなっていった。

 

2003年 - 2006年 [編集]

2003年ではA3チャンピオンズカップ初代王者を獲得。ヤマザキナビスコカップでも2年連続決勝に進出するも、浦和レッズに0-4で敗れて連覇はならなかった。リーグ戦では最終節にまたしても浦和レッズに優勝を阻まれ(後半ロスタイムにマルシオ・エメルソン・パッソスにゴールを許して引き分け)、あと一歩のところで優勝を逃した。以後、Jリーグ初の10個目のタイトル、「十冠」の達成が鹿島の悲願として掲げられた。

2004年は優勝争いに関われずに終わったが、J1が1ステージ制に移行した2005年は開幕ダッシュに成功し、一時は2位に勝ち点差10以上をつけるなど優勝争いを引っ張っていった。しかし、中盤に入るとガンバ大阪や浦和レッズ、ジェフ千葉、セレッソ大阪に追いつかれてしまい、優勝の可能性が残っていた最終節では勝利したものの、結局3位でシーズンを終えた。この2年間はヤマザキナビスコカップや天皇杯でも早期敗退が続き、中田浩二の移籍問題も発生して、チームは過渡期を迎えた。

2006年は、ブラジルの名門サンパウロFCをFIFAクラブ世界選手権(現 FIFAクラブワールドカップ)優勝へ導いたパウロ・アウトゥオリ監督が就任。更にFWの柳沢敦が復帰、高卒ルーキーのサイドバック内田篤人の活躍などがあったが、シーズン途中に大黒柱だったMF小笠原満男がFCメッシーナ(イタリア)へ翌年6月までの期限付きで移籍してしまった。チームは2点以上失点するゲームが多く、リーグ戦での成績は伸び悩んだ。一方でヤマザキナビスコカップでは3年ぶりに決勝に進出したが、十冠がかかった決勝でジェフ千葉に敗戦。4年振りの同杯獲得はならなかった。天皇杯では、同年限りで引退を表明した本田泰人を優勝で送り出そうとするも準決勝で浦和レッズに敗れた。結局、パウロ・アウトゥオリ監督は1年で退任し、ブラジルへ帰国した。

 

2007年 [編集]

2007年シーズンは、コリンチャンスを率いて2000年のFIFAクラブ世界選手権(現 FIFAクラブワールドカップ)を制覇し、サンパウロ、サントスなど名門クラブの監督を歴任しているオズワルド・オリヴェイラ(ブラジル)を新監督に迎えた。プレシーズンマッチで小笠原移籍後チームの司令塔を務める野沢拓也が負傷し、シーズン開幕から5節は勝ち星がなく(3月3日の開幕戦で川崎フロンターレ、3月11日の第2節でガンバ大阪にどちらも0-1で敗戦した後3試合引き分け)、野沢が復帰した第6節(4月14日)の横浜FC戦でようやくリーグ戦シーズン初勝利を挙げた。その後は復調し、5月12日の磐田戦でJリーグ史上最速の公式戦通算400勝、6月16日のサンフレッチェ広島戦で本山雅志のゴールによりホームゲーム通算500得点を達成した。

7月3日には期限付き移籍が終了した小笠原満男の復帰が発表された。復帰した小笠原はヤマザキナビスコカップ準々決勝での勝利に貢献した。7月29日には前年に引退した本田泰人の引退試合が、1993年のJリーグチャンピオンシップの出場メンバーを中心にした「鹿島アントラーズ1993対ヴェルディ1993」(4-2で鹿島アントラーズ1993の勝利)としてカシマスタジアムで開催された。

日本代表が参加したアジアカップの中断を経て、8月12日の第19節から再開されたJリーグでは、同節のヴァンフォーレ甲府戦で野沢拓也のゴールによりJリーグチーム史上最速のリーグ戦通算900得点を達成した。以後、鹿島は調子を上げ、9月22日の新潟戦以降はJリーグでの連勝を続けた。ヤマザキナビスコカップでは10月に行われた準決勝でG大阪に1勝1敗となり、アウェーゴール数の差で敗退した。優勝争いをしていたガンバ大阪と浦和レッズの不調が続き、11月24日には一時期勝点差11をつけられていた首位浦和との直接対決で1-0で下して2位に浮上した。これは史上最速のリーグ戦通算300勝でもあった。そして、12月1日、リーグ最終節で清水エスパルスを3-0で下し、引き分け廃止後J史上最多となる終盤の9連勝で6年ぶりのリーグ優勝、同時にクラブの悲願だった「10冠」を達成した。最終節まで一度も首位に立たなかったチームが最終節で逆転優勝したのはJリーグ史上初めて。1シーズン制でのリーグ戦通算22勝はチーム最多勝となった。

 

2008年 [編集]

1月1日、Jリーグ発足後史上初3度目の優勝をかけた天皇杯決勝は、サンフレッチェ広島と対戦し2-0で勝利。自身2度目となるリーグ戦との2冠を達成した[1]。1月9日、鹿嶋市からJリーグ発足史上最多の11冠達成を称え、特別功労賞を贈られ、2月1日には茨城県から県民栄誉賞(2000年度以来2度目)を授与された。

3月1日、ゼロックス・スーパーカップはJ2チームとしては初出場の広島と対戦し、2点をリードするも終了間際に追いつかれ、PK戦の末に敗れた。しかし、3月8日から開幕した2008年のJリーグでは開幕から連勝を重ね、2007年からのリーグ連勝 14(PK戦廃止以降としては最多)に伸ばす記録を達成した。 4月30日、ヴィッセル神戸戦でマルキーニョスの得点により、Jリーグクラブ史上最速のリーグ通算950得点を記録。5月17日、カシマスタジアムでの公式戦最多の21試合無敗記録を達成。6月25日、大分トリニータ戦でダニーロの得点で、カシマスタジアムでのリーグ通算500得点を記録。7月13日、スイスのFCバーゼルでプレーしていた中田浩二がFC東京戦で復帰。10月1日、大宮アルディージャ戦でマルキーニョスが、チーム最多のリーグ戦7試合連続得点達成(当時、J1 2位タイ)。12月6日にアウェイ、札幌ドームでコンサドーレ札幌を1-0で下し、2000年・2001年シーズンに続いて2回目、また1シーズン制導入後初めてとなるJリーグ2連覇を達成。この年のリーグ戦でマルキーニョスが、鹿島初のJリーグ得点王を獲得(21得点)。AFCチャンピオンズリーグ2008では順調な滑り出しを見せ、日本のクラブチームでACLグループリーグ最多得点となる6戦合計28得点(それまでは2006年にガンバ大阪が記録した26得点)をあげてクラブ初の決勝トーナメント進出を決め、ベスト8。

 

2009年 [編集]

史上初のリーグ3冠を目指す2009年は、全国高等学校サッカー選手権大会で大会新記録の10ゴールを挙げた鹿児島城西高等学校の大迫勇也、鹿島では史上初となるブラジル人以外の外国籍選手である、韓国人のパク・チュホを獲得した。 また、2月1日にクラブへ貢献した選手などに対する殿堂として第1回アントラーズ功労賞が発表された。また同日に功労者である秋田の引退試合が行われた。同月28日に富士ゼロックス・スーパーカップのタイトルをかけてガンバ大阪と対戦、3-0で勝利し同タイトル10年ぶり4回目の優勝を果たした。翌週の3月7日にホームのカシマスタジアムで浦和レッズと開幕戦を行い、ホームでは6年ぶりの勝利を飾り3連覇への好スタートを切った。 4月29日、ヴィッセル神戸戦での岩政大樹の得点で、Jリーグ史上最速のリーグ通算1000得点を記録。 5月2日、小笠原満男がジェフ千葉戦で、鹿島最多のリーグシーズン最多連続得点(11シーズン)を記録。

AFCチャンピオンズリーグ2009は初戦のアウェイで韓国の水原三星ブルーウィングスに1-4の大敗するも、ホームでの同戦で3-0で勝ち、2年連続の決勝トーナメントを決めた。

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